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二十世紀の初頭、少女というカテゴリーが浮上した当初から、少女性とは何か、それをどう評価するかといった言説は、統一性を欠き、断片でしかありえず、混乱していた。というより、少女性なるものは、なにより男対女という分割をかきみだし、さらには女性的なるものの統一を分断するモーメントとして登場する。少女というカテゴリーの浮上は、新中間層と呼ばれたサラリーマン世帯の急増と比例している。郊外に住み、職住分離、男女の役割分業が明確になった核家族が、新中間層のライフ・スタイルである。そこに少女のための場所、少女の時間や空間はほとんど用意されていない。そして、少女はテリトリーを脅かされつつ浮上したのである。年若き、未婚の、あるいはまだ母ではない女たち。少女という謎は、彼女たちが活きる時間と、性に集約される。近代化のプロセスを足早にのぼりつめようとする男たちの生きる均質的な時間とも、家族の生を再生産し見守る女たちの持続と反復の時間とも、少女たちの時間は異なる。少女たちの時間は、あるときは主婦となる以前にひきのばされたモラトリアムであり、あるときは濃密な停滞であり、あるときは後退し、また、ときに迷走する。ゆえに、少女というカテゴリー、文化、ジャンルは、はじめから奇妙なノスタルジアに染め上げられていた。
少女たちにとって、振り返るに足る過去の経験など、ごくわずかなものに過ぎない。ノスタルジアの機構は、過ぎ去った時間を単純に賛美する心性ではない。むしろ、ほんの少し前に通りすぎた時間から、現在が過酷に切り離されてしまったという認識、やがて来る時間が現在よりさらに暗鬱なものに違いないという予感、その狭間にノスタルジアは胚胎する。少女という性は、男性と向かい合うことなしに、男性によって規定されることなしに、女性でありうる性、女性性のなかで異性愛の強制をまぬがれうる部分を占めている。男性対女性というセックスの二元論、またそのセクシャル・アイデンティティを前提とする文化的社会的な性別分業、役割、ジェンダーの二元論、そういう二元的対立関係の網目をかいくぐり、少女文化のさまざまな表象は漂っている。ノスタルジアがアルカイックな一元論に回収されるが、高度成長期を経て、少女たちは、少女という表象の消費者として、同時に少女という幻想を解体する者として街に溢れる。ノスタルジアや、異性愛の強制に対する違和感は、少女という表象を素通りし、また少女によって代弁されること抜きに、二十一世紀のオトナの課題となりつつある。少女の予兆することがらをオトナが引き受けるまでには、長い時間がかかるのだろう。少女は「母」なる自然と民族との墜落と崩壊といううらはらな位置を占めるのでなく、空虚な時空の存在でもない。フォトグラフという視線の周辺で起こるストイックな叫びは、この視線によって少女たちの心性な存在をわれわれに投げかける。しかし、少女たちは決して表現者にはならないが、自己閉鎖が横行している現代に「ひずみ」を与え、定義主義な階層社会に風穴を空けられるのは少女たちである。大袈裟に言えば、少女たちの変化は、社会が変化することでもあるのだ。